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暮れのオラトリオ
葉介

  2−前編

 毎回、皇族が降りてくる日には、オアシスに恵みの雨が降り注ぐ。
 この日も朝から、塔の頂上を隠す雨雲が広がっている。砂漠の気候とは思えない清涼な風が町を吹き抜けていた。
 この天気すら、魔法によるものなのだという。常人には想像も及ばぬことだ。
 祭日ということもあり、中央広場には朝から多くの人が集まっている。あちこちに天幕が張られ、日頃庶民の口にできないようなご馳走も振る舞われていた。
「こんな日にまで仕事でもあるまいに」
 忘れ物を取りに来たらしい一人の工員が、呆れたような声を上げる。
 がらんとした作業場で、耳障りな駆動音が木霊していた。
「いや、祭の方には行きますよ。これの試運転を兼ねて」
 アキラが車体の下から這い出して声を張り上げる。相手は肩をすくめて見せただけで、さっさと出ていってしまった。その後も、外の活気など目に入らない様子で、彼の意識は改良部分の点検に集中している。
 実際、町の人々がなぜあれだけ熱狂して皇太子夫妻の行啓を待ちわびるのか、アキラにはピンとこないのだった。
 皇帝が絶対の支配者、国民の守護者だというのは、もちろん理解している。だが知識としてだ。それ以上の実感が湧かない。
 クスミのような、皇統に名を連ねる人間との付き合いがあるからか。
 それとも、記憶喪失が原因で、そういった認識が妨げられているのか。
 根拠としては薄弱だ。他にも仮定は立てられるが、馬鹿馬鹿しいのでやめる。自己に対する判断材料がほとんどないというのが、全く、記憶喪失のやり切れないところだ。
 ふわふわと地に足の着かないアイデンティティ。鬱に悩まされながら彼が得たのは、「深く考えない」という心の防衛手段だった。
 ピシャリと両手で頬を叩くと、勢いを付けて運転席に飛び乗る。
 考えたって仕方がない。
 走り回れば気も紛れるだろう。


 外は既に小雨がぱらつき始めている。
 車には屋根は付いていないので、事務所から誰かのマントを拝借して身に纏う。だがフードは視界を妨げるので被らずにいた。
 人通りの激しい大通りを避けて、脇道を塔に向かって進む。
 自動車は快調に動いている。フィルターと、伝達系の密閉構造に手を加えたせいだろう、発動機の駆動音が今までとは違うのが感じられた。これで、砂の侵入によるトラブルは減るはずだ。
 一方、浸水の影響に関しては、そもそも考慮されていない。年に数えるほどしか降らない雨についてまで対策を立てる必要があるのか疑わしいところだが、せっかくいいタイミングで降るのだから、利用しない手はなかった。
 だが雨の祭日にそんなことを考えるのは、アキラくらいのものらしい。この提案をしたときも、他の者達には変な顔をされただけだった。
 中央広場の近くに差しかかったところで、誘導役らしい衛兵に止められた。
 自動車を検分する表情が何やら真剣だったので、アキラは発動機を停止して運転席を降りた。
「私は、プラストスの工場のアキラという者ですが、どうかしましたか」
「ああ、これはそっちの車か」
 衛兵は工場の名前を聞くと、ほっとした表情を見せた。
「工房の連中が集まって来ていてな、それで警戒している。今こいつで広場の近くを走られると、色々面倒なんだ。皇家の方々を拝し奉りたいのであれば、徒歩で出直すことを勧める」
 それだけ伝えると、衛兵は広場に向かって走っていった。召集の呼び子が鳴り響いている。向こうで何かあったのだろうか。
 取り残されたアキラは、しばし進路を決めあぐねたが、結局このまま先へ進むことにした。どちらにせよ中央広場からは離れる方向なので、彼らに面倒をかけることはないと思ったからだ。再び発動機がうなりを上げる。
 塔の外周を一回りして、工場に戻る考えだった。式典の様子は、帰りがてらにでも見られればいい。
 視線を転じると、円柱状の塔の外壁が、既に視界を覆うほどに迫っている。たどり着くにはまだしばらくかかるのだが。
 その正確な大きさは知られていないが、一つの階層に小さな町一つがまるまる収まるほどの広さがある。聞くところによれば、塔の中の人口はオアシスのそれを超えるという。
 比類なき巨大さを誇るこの塔が、かつて外の世界を従え、権力の象徴としてあったという伝説も、間近でこの威圧感を目の当たりにすれば納得がいくというものだろう。
 ほとんど人々の話題に登ることなどないそんな知識も、ウォルダート達に研究対象としてつき合った結果得たものだった。


 報告を終えた兵士達が、クスミの下から持ち場へと散っていく。
 野次馬根性か、それとも反抗の意思の表れなのか。工房の人間が式典を見にやってくること、それ自体に問題はない。だが自動車を近くまで乗り入れさせようというのは、もちろん許可するわけにはいかなかった。
 式典の進行を取り仕切る立場のクスミにとっては、頭の痛いことである。工房の出方によっては、最悪の場合、行啓の取り止めも考えなければならない。
 警備に当たっているのは、オアシス出身の魔法の力を持たない兵士達がほとんどだ。儀礼用の槍と刀で武装しているが、甲冑のような前時代的な武具は、使われなくなって久しい。身を守れるかどうかは、ただその腕次第である。
 しかし本当は、そんな力など何の役にも立ちはしないのだ。
 工房が本気で反乱を起こそうとするなら、必ず銃火器を持ち出してくる。それら兵器の取り締まりは厳重に行われてはいるが、それでもまだ隠し持っているのは間違いない。
 そうなれば、兵士達に為す術はない。できることは、魔法使いが──すなわちクスミ自身が──事態を収拾するまで被害が広がらないよう、時間稼ぎのために踏みとどまるくらいだった。
 工房の者達は、今はまだ広場の外側で衛兵に押し止められていて、騒ぎを大きくしようという気配はない。その他に、アキラが自動車に乗ってきていたことも伝わってきていたが、それに構うような余裕もなかった。
 工房の持ち札として、もう一つ気になるものがあったからだ。
 それがまともに使えるものかどうかは怪しいものだったが、脅威になる可能性が少しでもあるなら、対処しないわけにはいかない。腰に差した小刀に軽く手を乗せ、手応えを確かめる。目立つほどではないが、それは先程から淡い光を放ち続けていた。
 いつの間にか、雨が止んでいた。頭上の雨雲に切れ間ができ、筋となって陽光が射し込む。クスミはマントを外して立ち上がった。
 細長い船体の中央を貫く竜骨が、雲の奥から光を遮って顔を覗かせた。
 群衆のざわめきがぴたりと止む。皆、その荘厳な光景に目を奪われているかのようだった。
 雲を抜け、完全に姿を現した白い船体。満帆に風を受けたマストが左右に2本、翼を広げるように突き出している。それが皇家の座乗船、シャーン=バラタイである。
「皇太子殿下御夫妻の御成である。儀仗隊、整列! 気をつけ!」
 クスミの号令の下、隊列をなした儀仗兵が不動の姿勢をとった。


 塔を挟んだオアシスの反対側、そこは緩やかな起伏の続くれき砂漠が広がっており、人家は存在しない。砂埃の舞うその荒涼とした場所で、数人の男達が何かの作業を行っていた。
 手分けして砂と石を取り除いている。やがて、広くなだらかな斜面の麓から頂まで伸びる鉄のレールと、覆いのかけられた四つの大きな塊が現れた。
「もうそろそろ、船が降りてくる時間だぞ。周りの状況はどうだ」
 抑えた声でそう言ったのは、エイオルヴである。他の者達も、皆工房の人間だった。双眼鏡で辺りを監視していた一人が、塔の方を注視する。
「近辺に人影はなし。裏門の歩哨も、こちらには――。待てよ、他にも人がいる」
「貸せ」
 双眼鏡を引ったくると、エイオルヴは塔の方を覗き込んだ。
 裏門は、普段は使われることはなく、この日も閉ざされたままになっている。その正面に、人が一人立っている。こちらに背を向けているため、何をしているのかはわからない。しかしその長い黒髪と、手に持った杖は、彼の見覚えのあるものだった。
「あの女は、確か……」
 思い出した。昨日、砂漠で遭難しかけていたところを、バイクで町まで送ってやった女だ。その時といい、どうも奇妙な場所で見かけるものだ。
 素性を聞き出すことはできなかったが、オアシスの住人ではなさそうだった。塔の者だとしても、工房に対して探りを入れるような態度は見せなかったので、何のためにオアシスにいるのかはわからない。
 エイオルヴの視界に、もう一つ動くものが入ってきた。アキラの乗った自動車だ。数キロ離れたこの場所まで、発動機の音がわずかに伝わってくる。
 自動車は、女の前で停止した。どうも互いに顔見知りのようだ。ますますわけが分からない。
「おい、まずいのか?」
 双眼鏡を覗き込んだまま動かないエイオルヴに、声がかかる。
「いや大丈夫だ。準備しろ、このまま作戦を開始する」
 その合図を受け、他の者達は一斉に覆いを取り払った。姿を現したのは、木枠と布張りでできた巨大な乗り物だった。
 円柱状の胴体の中央に、人の体が収まる穴が開いている。その胴を上下から挟み込むように、横に長い平板が固定されている。加えて、胴体先端の発動機と、それに直付けされた二枚羽の大きなプロペラ。
 いわゆる、レシプロ飛行機である。それを五人がかりでレールの下端に引きずり上げた。レールの正体は、火薬打ち出し式の発射装置だ。
 装置に取り付けられた飛行機の内部に潜り込み、点検を行う。ここまできて故障など、考えたくもないが、それだけデリケートな機械なのだ。長いレールに詰まった砂も、十分に払い落とさなければならない。
 アキラ達の様子は気になったが、確かめている猶予はなかった。こちらに気づいていないのなら問題はない。むしろ自動車のたてる音がいいカモフラージュになるだろう。


「どうしたんですか? こんなところで」
 エルレーンは閉ざされた門の前に立ち、ぼんやりと塔を見上げている。
「ええ、……はい」
 再会した彼女の様子は、やはりどこか変わっていた。アキラが声をかけても、心ここにあらずといった感じだ。
 自動車から降り、隣に立って同じように見上げてみる。
 曇天の空。塔の半ばより上は、雨雲の向こうに隠れている。他に何が見えるわけでもない。座乗船が降りてきているはずだが、それは反対側、オアシスの方での話だ。
 ふと視線を目の前に戻す。門の脇に立つ衛兵が、勘弁してくれと言わんばかりの表情でこちらを睨んでいた。アキラは咳払いを一つすると、改めてエルレーンに向き直った。
「さっきから何を見てるんですか? ……エルレーン?」
 名前を呼びながら、肩を叩く。彼女は、一瞬ビクリと肩をすくめてそこから飛び退いた。それでようやく、こちらの存在に気が付いたようだった。
「え、あの、今呼びました?」
 本当に何も聞こえていなかったらしい。アキラを見て目を瞬かせている。
「ええ。エルレーン、で、合ってましたっけ?」
 そう尋ねられて、彼女の方もアキラを思い出したらしい。胸の前で杖を握り締めていた手から、力が抜けた。
「ああ! はい。昨日は本当にどうも、ごちそうさまでした」
 ぶんぶん音がしそうなほど、何度も頭を下げる。そして何か喋ろうと口を開いたところで、エルレーンの動きが止まった。
「ええと、ア……、アー」
 アキラの方を指さし、それから自分の額を突いて、何やら唸っている。
 まあ、仕方のないことかもしれなかったが。
 昨日の様子を思い返せば、彼女が人の話をじっくり聞ける状況になかったというのは、十分納得できる。
 仕方なくこちらから名乗ろうとしたとき、エルレーンは確信に満ちた表情で、顔を上げた。
「アッシュさんでしたよね」
「アキラです」
 灰になってしまった。
 エルレーンが凍り付く。
「……ごめんなさい」
 発動機の立てる音が、やけに耳に付いた。

「ところで、どうしたんですか? こんなところで」
 アキラは苦笑いを浮かべつつ、話を元に戻した。座乗船が帰ってしまうまで、ここでずっと呆けているのもつまらない。
 落ち着きを取り戻した彼女が言うには、塔の中に入れなくて困っているらしい。
「許可のない者を、勝手に中へ通すわけにはいかん!」
 と、門番が口を挟む。それは常識だ。
 塔の人間であれば、誰でも自分の許可証を持つことができる。また、オアシスの者が仕事などで中に入る必要がある場合は、責任者の発行する通行届を持たなければならない。無論、皇族のような例外は顔パスだが。
「正門でそう断られたので、裏口ならもしかしたら、なんて思ったんですけど」
 彼女がそういう例外であるはずもない。
 オアシスからここまで、女の足で何時間かかるのだろう。聞いただけで疲れる話だ。無駄足になる可能性が高いことはわかっているはずなのだが。
「それなら一度帰って、通行届を再発行してもらった方が早いと思いますが……」
 言わずもがなの言葉。だがそれを聞いたエルレーンは、うつむくと黙り込んでしまった。表情を窺ったアキラは、重ねて問いかけようとしていた言葉を飲み込む。
 今までの、線の細さに似合わない大げさな仕草で見せていた活発さから打って変わって、急に花が萎んだような感じだった。
 どう声をかけるべきか迷ったが、アキラはこれ以上追求するのは諦めた。
「とにかく、ここにいてもしょうがない。町へ戻れば、何か手があるかもしれませんし。もし良ければ、この車で送りますよ」
 努めて明るく言って、車輪を叩いてみせる。エルレーンはうなだれたままだったが、はっきりとうなずいた。

 助手席にエルレーンを乗せて、自動車が再び塔の外周を進む。
 彼女に関しては、今のところ素性すらわからないままだ。しかし、余程の理由があるのならクスミに相談してみようか、などとアキラは考えていた。何の因果か、それとも偶然かはわからないが、この奇妙な状況を楽しんでいるのだ。
 とりあえずは、自分の身の回りであった話の種など聞かせながら、相手の気分を紛らわそうとしていた。
 彼女が気になる反応を見せたのは、プラストスの工場の話をしていたときだった。
「そう言えば、二輪車もあるんですね。昨日乗せてもらいました」
「二輪車? あの工場では、バイクは作っていませんが」
 そう答えると、エルレーンは首を傾げた。
「あれっ? でも、こう背中の辺りまで髪伸ばした男の人が乗ってたんですけど、そういう人って工場にいませんか?」
 バイク、長髪の男とくれば、思い出すのは昨日のあれだ。
「ああそれなら、プラストスの社員じゃないですよ。工房の人間です。知り合いではありますけどね」
「工房……、というのは、アキラさんの勤めてるのとは別の所ですか?」
 アキラは思わず、運転を忘れて彼女の顔を覗き込んだ。
 この国にいて工房を知らないというのは、それだけで一般常識を疑われても仕方ないくらいのことなのだ。
「私、変なこと言いました?」
 エルレーンが不安げに眉をひそめる。アキラは我に返ると、慌ててハンドルに集中した。
 今ので、判断材料はあらかた揃ったように思える。彼女が自分について話したがらないのも、推測の通りであれば無理はないのだ。
 彼女の疑問に答える代わりに、アキラは質問で返した。
「今ので、大体の事情はわかりましたよ。昨日、砂漠で迷っていたのを、その長髪の男に助けられたんですよね?」
「え? ええ」
「何でそんなところにいたのか、自分でもわからなかったでしょう?」
 冷静に語って聞かせるアキラと対照的に、エルレーンは顔色を失っていた。無言のままゆっくりとうなずく。
「私のこと、知っているんですか? どうして私、自分が――」
「落ち着いてください。貴女が何者なのか知っているわけじゃないんです。でも、助けにはなれると思いますよ」


 音もなく着地した白い船体の舷側に人影が現れると、人々は歓声を上げた。
 その一団の中から進み出て、群衆に手を振り応えた壮年の男が、皇太子のミツラギである。皇帝とその嫡出の者のみが着用を許される、紫のマントを身にまとっている。
 歓呼の声が収まるのを見計らって、皇太子が言葉を述べ始めた。
「この度も、たくさんの国民が集まってくれて、とても嬉しく思う。皇国の礎となる者達がより豊かに満たされるよう、常に陛下も望んでおられる。今日一日は、諸君らの労をねぎらう休日として、存分に祭を楽しんでもらいたい。そして十分に英気を養い、今後も皇国の繁栄に力を貸してほしい。さすれば、次の祭にはさらに多くを与えることがかなうであろう」
 一際大きな喝采が上がった。


後編へ続く


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