表紙 始めに 掲示板 リンク 雑記

暮れのオラトリオ
葉介

  1

 夜空を見上げている。
 雲一つない、満天の星空だ。
 背後に見えるオアシスの町並みもすっかり寝静まっていて、明かりはほとんどない。
 その閑寂な砂漠の海の中、黙々と砂を踏みしめて歩く一行があった。
 四方を見渡せる一際大きい砂丘の頂までたどり着くと、彼らは思い思いの場所に腰を下ろした。それからどうするかというと、やはりまた顔を上げて空を眺めている。
 不思議な雰囲気の沈黙がしばらく続いた後、その中の一人の女性が声を洩らした。
「私、実際に見るのは今回が初めてですのよ」
 ここまで先頭に立って歩いていた中肉中背の男が、それに答える。
「このような場所まで降りてくることこそ滅多にないのですから、それはそうでしょうね」
 振り返り、その女性の背後に目を向ける。月の光に青白く染まる豊かなブロンドの向こうを見晴るかす、オアシスを越えた先。そこには、空を縦に割るかのような高く巨大な構造物が、星明かりを遮る闇となってその存在を浮かび上がらせていた。
「それにしても、毎回報告は受けているとはいえ、この素晴らしい景色の中に身を置いていると、信じがたい気持ちにもなります。……人が降ってくるというのは」
 今夜のような、良く晴れた夜には人が降る。そんな伝説がこの土地にはあった。そしてその現象は、毎年一度、決まった時期に起こることが当局の調査では判明している。民間の間でも、知る人ぞ知るといったところで、偶然その様子が目撃されることもあった。
 しかし、なぜ起こるのかということについては、何もわかっていない。どこか遠くで竜巻に吹き上げられてくるのだろうという説がもっぱらだが、外の世界との交流がほとんどないこのオアシスでは、確認する術もない。
「確かに、自然現象としては不自然なところもある。しかし、これが人為的、あるいは超常現象であることを示す証拠も、今のところ見つかっていません。落ちてきた人間も、なぜか全員が記憶を失っているので、証言が得られない。それに、最近のケースでは、今までは見られなかった――」
「ウォルダート、来たわ。あそこよ」
 男の言葉を遮って、別の女性が立ち上がり、空を指した。
 その先に、星の光とは違う、小さな火の玉のような赤い光が見える。
「あれが、人間なのですか?」
「ええ、例年通りです。ノーマ、回収準備を。今回はいつもより歩かずに済みそうだ。行こう」


 彼らが砂丘を降り始めている間にも、火の玉はみるみる地上に迫り、一行のいる場所から程近くに落ちた。再びウォルダートを先頭に、足早に落下地点へと向かう。
「結構な勢いで落ちていきましたけど、無事なのでしょうか?」
「数年前までは報告の通り、彼らが落下によるダメージを受けていることはありませんでした。今のところ、過程に異変は見られません」
「では最近の、死亡という報告が続いているのは」
「それも、報告にある以上のことは不明です。遺体の状態がひどく、死因の解明が不可能、ということです」
 行く手に、砂煙が上がっているのが見える。ウォルダートの説明を聞いていた女性は、落下地点に何かの影が見えてきたところで立ち止まった。ウォルダートが懐から望遠鏡を取り出してのぞき込む。
「ここからでは何とも言えませんが……、大丈夫のようです。クスミ様、確認しますか?」
「いえ、そういうことなら参りましょう」
 やがて砂煙も晴れ、近付くにつれ、人の形がはっきりと見えてきた。彼らがすぐ側までやってきても、ぴくりとも動く気配はない。ノーマが側に屈み込み、絹の手袋をはめた手でその人物の様子を調べ始めた。
「外傷は特になし。脈拍正常。大丈夫、意識はないけど生きているわ。性別、男。年代は、二〇代半ばくらいかしら。身元を示すものは……、やっぱり何も持っていないわね。ウォルダート、何か見つかった?」
 手元の書類のチェック要項を埋めながら、同僚の姿を探す。だが、周囲に所持品の類が落ちていないかどうか見回っていたはずのウォルダートは、血相を変えてこちらに駆け寄ってくるところだった。
「急いで撤収の準備だ」
「何があったの?」
 それには答えず、ウォルダートは倒れている青年を担ぎ上げた。いつの間にか、周りから迫ってくる砂を叩くような足音が聞こえている。そして彼らを取り囲むように、人ほどの大きさをした影がいくつも現れた。
 完全に周りを囲まれていた。
「最近の異変は、あれが原因だったようですわね。こんなところで召喚とは」
 進み出たクスミの手に、小刀が握られている。それは刃の部分にまで装飾の施された儀礼刀で、実用性は全く感じられない。だが、彼女は余裕のある表情で小刀を掲げたまま、周囲の影を一瞥した。
 影は、包囲の輪を徐々に狭めてくる。
 彼らの目に判別できるまでのところまで来たそれらは、蟻に似た巨大な昆虫だった。現実にはあり得ない、それは魔法の産物である。鋭利な凶器となる顎が、月明かりに不気味な艶を浮かび上がらせていた。
「召喚?ではコイツらは……」
 すなわち、これら異形のものを呼び出し、使役している者がいる、ということである。
「既にこの一帯にレイヤーが敷かれています。迂闊でした。私としたことが、術士の気配を見逃すなんて」
 小刀が、星の光を吸い込んだかのように、淡い光を放ち始める。蟻達はそれを見て一瞬動きを止めたものの、やがて勢いを増して殺到し始めた。
 クスミは顔色を変えず、小刀から手を離した。支えを失ったそれは、しかし地面には落ちず、見えない糸に吊り下げられているかのように宙に留まっている。そして腰の小さなケースから、何枚かのカードを抜き出した。
「少しでも武器を用意しておいて、正解でしたわね。……意志無き者よ、我が軍門に下れ!」
 カードを頭上にかざす。それは小刀の輝きに呼応して光瞬き、無数の青い光の粒となって四方へ弾け飛んだ。
 直後、不意に突進の足音が止む。
 光をその身に受けた巨大蟻の先陣が、その動きを止めていた。
「あなた達の獲物はこっちではありませんよ。行きなさい」
 号令をかけるように彼女が腕を振ると、一番近くにまで迫っていた蟻の一群が、一斉に回れ右をする。そのまま後続の蟻達とぶつかると、同士討ちを始めた。
 そんな中、ウォルダートは周りの混乱をよそに、考え込むような顔をしていた。資料を片付け終えたノーマがその様子に気づく。
「ウォルダート?何を考えているの」
「うん。……術士が出張ってきて、落ちてきた人間を殺していた。それは、『塔』の誰かが、彼らが生きていてはまずいことがある、と思っている?」
 この一行の中では、クスミが『塔』の中の人間である。遠縁ではあるが、皇族の血を引いている彼女が関知していない──そもそもこの件の調査を命じているのだから──のならば、これを企んでいるのは、非公式な権力を持つものか、あるいは。
 ウォルダートの視線の先にあるもの、それが、背後の闇を透かして見える巨大な『塔』であることは、ノーマにはわかっていた。思わず肩を掴んで揺さぶっていた。
「事があなたの考えているとおりなら、私たちの手に余る事よ。関わるのは危険だわ」
「そうだな」
 口だけはあっさりと肯定するウォルダート。あまり信用できない。
「……時間稼ぎはできましたわ。準備は?」
 やがて巨大蟻達が完全に混乱し、行動にまとまりをなくしたのを確認すると、クスミはもう一枚のカードを手に、ウォルダート達に向き直った。
「終わっています」
「よろしい。では、帰りましょう」
 頷いて、頭上に浮かぶ小刀に手を差し伸べる。すると、それは吸い寄せられるように再び彼女の手に収まった。
 両手に持った小刀とカードが呼応し、先程のように光の脈動を見せ始める。
 同時に、三人の視界に歪みが起こり、次第に周りの光景が薄れていく。
 それは逆から見れば、隠れる術のない砂漠の真ん中で、三人の姿が忽然と消え失せる。そのように見えた。
 いつしか、お互いの脚にかじりついていた巨大蟻の群も動きを止める。当初の標的が既に去ったこと悟ったのだろうか。
 そして一斉に、かき消すようにその姿は消えた。
 後に残っているのは、無数の足跡のみ。
 その痕跡も、風に流されて消えていく。
 それが、魔法によって一時的に仮の命を与えられた、虚ろな者達の終わりだった。彼らには生も死もない。創造主の意志のままに動く、いわば操り人形なのである。
 そのつかの間の創造主たる力を持つ者達、すなわち術士と呼ばれる人間が、あの巨大な『塔』の中には数多く住んでいるといわれている。クスミもその一人である。このような人々は滅多に外に姿を現すことはなく、オアシスの住人にとって畏怖すべき存在となっていた。
 魔法。この限られた人間のみが扱える恐るべき力で、『塔』は太古の昔、強力な支配力を手に世界の中心として君臨したと伝えられている。
 そして今は、栄華を誇った歴史と共に全てを内に秘め、何人も寄せ付けぬ広大な砂漠の中にその身を封じ込めていた。
 しかし小さな自給自足の都市国家を形成し、遠く砂漠の果てに広がっているであろう外の世界との関わりを絶って、魔法の力は確かに受け継がれているのだ。
 例え、過去の繁栄を人々が忘れてしまっていても。




   − 一年後 −

 発動機を乗せた車台が耳障りな音を立てながら激しく震える。
 振り落とされそうになりながらも、アキラは何とか工場の前まで運転席剥き出しの試作車を入れる。スイッチを切って揺れが収まっても、まだ足下がぐらぐらするような感じだった。
「やっぱりだめか」
 建物の前に待っていた髭面の男が、ぼやきながら車体の下を覗き込む。
「まだ密閉が完全ではないみたいですね。砂を噛んじゃってる」
「ふむ」
 一声唸り声を上げて、男が顔を上げる。
 この男プラストスは、このオアシスの町で、民間では初めて石油燃料を用いた発動機を実用化した技術者である。彼の経営する工場では今、その発動機を元に、砂漠でも運用可能な自動車の開発に取り組んでいた。
「工房のヤツが一台でも手に入ればいいんだがなあ」
「社長の腕なら、あっちはいつでも歓迎すると思いますけど?」
 アキラが何気なく指摘すると、彼は筋肉で盛り上がった肩をすくめてみせた。
「だめだだめだ。俺は平和主義者なんでね。お上と事を構えるようなところとは組みたくない」
 彼らが『工房』と呼ぶものについて説明せねばなるまい。
 元は、塔の第一層を中心に活動する、手工業労働者のギルドである。
 それが、時を経るにつれて独自の研究機関を擁するようになり、強力な技術開発集団としての面を持つようになった。
 魔法の力を支配の基礎としている皇室が、これを快く思うはずがない。かつて、工房を国営機関として取り込もうとしたことがあったが、国からの圧力によって組織が弱体化することを恐れた彼らは、それを拒否した。
 以来、水面下で当局側との衝突を繰り返しながら、国内にあって半ば独立したコミュニティを形成するに至っている。
 その結果、工房の息のかかった者以外には、そこで得られた知識は公開されず、作られた物すら余程のことがなければ手に入らないという、閉鎖された組織となっているのだ。
「とにかく、バラして一からやり直しだ。……よっ」
 プラストスが車体を押すが、砂が詰まっていて力を込めてもびくともしない。
「責任持って所定の場所まで戻すように」
「……いいですけど」
 アキラに押しつけると、さっさと引き上げてしまった。
 しかし彼は痩せ型の体格で、プラストスとは比べるべくもない。一人の力で何とかなるはずがなかった。不幸なことに、他の工員の姿も近くには見えない。
 片目にかかる前髪をかき上げながら、ため息を付く。
 ぼんやりと空を振り仰ぐその顔は、途方に暮れているのか、それとも全く別のことを考えているのか、判断が付き難い。
 数分して、ようやく車体の方へ向き直ったとき、どこからか甲高い排気音が近づいてくるのに気が付いた。
 アキラが振り返ると、それは目の前の工場正門の前までやってきて止まった。
「よお。相変わらず、ポンコツ相手に苦労しているようだな」
 そう声をかけてきたのは、アキラと同じくらいの年格好をした、長髪の男だった。規則正しい律動を刻む小型の発動機を載せた、二輪車に跨っている。
「これは、エイオルヴさん。うちのようなところに偵察とは、そちらは暇そうですね」
「そんなわけあるか。ここに来たのはついでだ。今日はこの、新型バイクの試運転やっているんだ」
 それが工房製であることは、乗っている人間を見なくてもわかる。ここまで発動機をコンパクトに作り上げることができるのはそこだけだ。
 エイオルヴは、何年か前まではここの社員で、今は引き抜かれて工房の組員になっている。入ってちょうど一年のアキラと一緒に仕事をしたことはないが、今でもこうして時たま顔見せに来るので、お互いに見知っていた。
 来ても憎まれ口を叩くことしかしないので、工場の者達からは煙たがられているが。
「なるほど、さすがに工房製は出来が違いますね。近くで見せてもらって構いませんか」
 何食わぬ顔でバイクの周りを歩き回る。だがアキラが見たいのは一点、吸気パイプの濾過装置だった。
「小型なだけではないぞ、パワーもある。先程も御婦人を一人送ってきたところだ。砂丘地帯をうろうろしていた理由がわからんがな。……ええい触るな」
「砂地を踏破できると。それは機関部のケーシングにも工夫がありそうですね」
 乱暴に突き離されながらも、見るべきものは見たというのか、アキラはにこやかな表情を崩さず言葉を続ける。それに気勢を削がれたか、エイオルヴは不快げに鼻を鳴らすと、バイクのアクセルを開けた。
「もう十分だろう。俺は忙しい。こんなところでいつまでも油を売っているわけにはいかんのだ。そこのデカブツは、お前一人で何とかするんだな」
 イライラと吐き捨てるように言い残すと、エイオルヴはバイクの甲高い音を響かせて走り去った。アキラは苦笑しながら、手を振って後ろ姿を見送る。
「……さて」
 改めて、立ち往生したままの車に向き直る。
 このままではどうにもならない。アキラはいったん工場の中に戻ると、台車とジャッキを持ってきて、動かない駆動輪の下に噛ませた。それでも、彼一人には荷が重すぎるのだが。
 しかし、他に助けを借りにいく様子はない。
 静かに車体の後ろから手を当て、目を閉じた。
 日の光とは異なる炎の揺らめくような光が、掌から漏れ出す。
 そのまま片手を前に押し出す。すると、ぎしり、と車軸が重く軋んだ音を立てた。


 賑わいを見せるオアシスの中心街。その通りに接するカフェテリアで、クスミは二人の報告を聞いていた。
「だめでしたか……」
 結果は望ましい物ではなく、彼女はティーカップを置いて、沈鬱な表情を二人から背けた。
「今回は発見に手間取りました。残っていたのは、食い散らかされた腕一本です」
 ウォルダートとノーマは、今年も落ちてくる人間の捜索を行っていた。だが生存者の確認はかなわず、彼らが落下地点にたどり着いたときには、事件の痕跡が残されているのみだったのだ。
 過去の情報の蓄積から、落下地点の予想はある程度はできるものの、その範囲は少ない人数ではカバーし切れないほど広い。
「やはり、確実を期すにはもっと人を増やすしかありません」
 ノーマの指摘は、できないことは承知の上でのことだ。それでも歯痒さゆえに、言わずにはおれない。
「わかっています。ですが、今大きく動いて上の目に留まるようなことは避けたいのです。今年も私が動ければ良かったのですが、今回は同時期に処理しなければならないことが多すぎました」
 通りはバザーで賑わっている。それは、二年に一度の皇族の御行啓を明日に控えているからだった。必然的に、オアシスの執政官であるクスミの仕事も増える。
 しかし、ノーマは語調を強くして詰め寄った。
「ことは人命が関わっているのですよ。それに、たとえ間に合ったとしても、去年のようなことがあっては私達には手も足も出ないんです。貴方の勤めを置いておけとは言いませんが、最低でも一人、魔法の心得のある者に付いてもらわなければ、次回も最善を尽くすという約束はできません」
 クスミは黙ってその訴えを聞きながら、頷いていた。このままでは、この先行き詰まってしまうことは、ここにいる者は皆理解しているのだ。問題は、どこまで危険を冒すか、その塩梅を決めることである。
「わかりました。術士については、つてを当たってみることにしましょう。ですが、重ねて言いますが、上に気取られたくはないのです。最悪の場合、調査活動自体が取り止めになる可能性も考慮して、あなた方は自重してください。よろしいですわね」
 二人は頷いた。
 会話の区切りが、不意の沈黙を作る。
 実際の所、調査に関しては、原因の究明には程遠い段階というしかなかった。それでも放っておけば命を落とす人間がいるのを、見過ごすわけにはいかない。
 ともあれ、魔法使いが絡んでいる可能性が高い以上、慎重にならざるを得なかった。人命救助の点にしろ、落ちてくる者達が本当に人間なのかどうかも、簡単に結論付けるわけにはいかないのだ。
「そういえば」
 クスミが思い出したように、口を開く。
「去年の彼は、その後どうしていますか」
「アキラのことですか。彼は元気ですよ。今はプラストスの工場で働いています」
「そうですか。それで、何か思い出した様子はありますか?」
 彼らによって助けられたアキラもまた、例外に漏れず記憶を失っていた。名前だけは、後から思い出したといって、そう名乗っている。
「──私のことを、話していましたか?」
 突然テーブルの外から声がかけられ、三人はぎょっとして振り返った。
 いつからそこにいたのか、彼らのすぐ脇に立っていたのは当のアキラである。
「やれやれ、足音を立てずに歩くのは、君の癖か?」
 ほっとした表情で、ウォルダートが言う。話に没頭していたのかもしれなかったが、三人とも、気配には敏感なはずだった。
「いや、驚かすつもりはなかったんですが」
 すまなさそうに頭をかいている。
「いいさ。僕達も油断していた。買い物帰りかい?」
「ええまあ。材料の調達に」
 クスミが、空いている隣の席を勧めながら訪ねる。
「それで、ちょうど貴方の記憶のことを話していたのだけれど、少しは思い出したことがあるかしら?」
「それは……、全然ですね。なまじ生活が安定してきてるものだから余計に、なのかもしれませんが」
 ショックを与えることで記憶を取り戻すということがあるなら、彼の言うことはもっともだった。しかし先程の話でもあるが、関係者に迂闊な動きをされるのは好ましくない。これも頭の痛いところであった。
「そういえば、ちょうど一年ですね。それじゃあ今回も……?」
 三人の表情が沈む。
「……その様子じゃ、だめだったようですね」
「ああ。気の毒なことをした」
 むしろ君は幸運なケースなのだ、とウォルダートは続けようとしたが、それは彼のプライドが邪魔をした。


 とはいえ、それくらいのことは言われずとも感じていることだ。
 近年になって、落ちてくる人間が直後に殺されているということは、アキラも聞かされていた。今日ウォルダート達に会う前も、町で話していたのだ。相手はもちろん、アキラと同じ境遇の人間達である。自分自身の手掛かりを掴むため、独力で調べ歩いているうち、必然的にたどり着いたコネだった。
 ウォルダートの説得で彼らは平静を保っているものの、アキラの一件は『塔』に対する不信感を抱かせるには十分なことだ。アキラ自身が積極的にウォルダート達と接触しているため、クスミを含む調査活動のメンバーには今のところ友好的な態度をとっているが。
 何にせよ、一年待った結果が進展無しというのがやり切れない。
 バザーの露店を冷やかしながら、アキラは仲間にどう伝えたものかと思案に暮れていた。
 人混みから外れ、オアシスで唯一樹木の生い茂る池の水際まで歩くと、荷物を置いて芝の上に座り込んだ。
 離れたところで女達が洗い物をしているのをぼんやりと眺めながら、通りの喧噪とは無縁の落ち着いた空気に浸る。
 記憶をなくした状態で目覚めてから一年。
 焦燥感のようなものはある。だが生活の面では少ないながらも援助が受けられ、困るほどのこともない。
 買い物袋から一塊のパンを取り出し、見つめる。心のどこかに恐れがあるなら、きっかけの掴めない今は何をやっても無駄かもしれない。
「一人で考え事など、私らしくもない──。ん?」
 視線を感じて振り向く。
 背後に立って彼の方を見ていたのは、アキラと同じくらいの年格好の、黒髪を腰の辺りまで伸ばした女性だった。
「……何か?」
 アキラを、というよりむしろ真っ直ぐに彼の持つものを凝視している。
 物乞いだろうか?
 だが多少砂埃で汚れているものの、それなりにちゃんとした身なりをしている。手にしている、地面から肩の高さまである長い杖も、貧乏人の持ち物には見えない。
 それが、思わず腰が引けてしまうほど、今にも涎を垂らさんばかりのハラペコ光線をパンに向けて照射しているのだ。
 かけるべき言葉に迷うが、このまま無視もできない。多少引きつった愛想笑いを浮かべながら、パンを差し出した。
「いります?」
 初めて、相手の視線がアキラの目に向けられる。
 印象は地味目だが、ほっそりと整った顔立ちの女性に熱い眼差しで見つめられるというのは、本来なら男として嬉しい出来事のはずなのに、なぜかこの場には緊迫した空気が漂っていた。
「──。はっ」
 彼女はやっと何事か喋り出そうとして、いよいよ口からこぼれかけた唾を飲み込んだ。
「食べても、いいんですか?」
 少し掠れた声で、そう尋ねる。コミニュケーションがとれたおかげで緊張も解けたのか、アキラも今度は自然な笑みを浮かべて頷いた。
「ありがとうございますっ」
 受け取ったパンを大事そうに胸に抱くと、彼女はへたり込むようにその場に腰を落とした。


 結局。
 アキラがその場に持ち合わせていた食べ物は、全て彼女に平らげられてしまった。
 女性というのは、ものを食べているところを見られるのを嫌う、という彼の抱いていた固定観念は打ち砕かれた。
 まるで小動物に餌を与えているような気分になって、思わず彼女の頭を撫でてしまったときにも、気にする素振りも見せずに食べることに専念していた。そんなに死ぬほどの空腹を抱えていたのか。
 その女性は、エルレーンと名乗った。だが何処の何者かという問いには、困ったように言葉を濁して聞くことができなかった。人心地が付いて、さすがに恥ずかしい思いをしたと気付いたのだろう。そう納得することにする。
 ここまで施した挙げ句に、まだ警戒されていたのだとしたら救いようがない。
 むしろ自分が。
 去り際に何度も何度も頭を下げて感謝する彼女の顔を思い出して、アキラは苦笑ともため息とも付かない吐息を漏らした。


続く


prev 掲示板 next

表紙

[PR]動画