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Error of Hourglass
葉介

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 彼方で吹き渡る地吹雪が、灰色の空と地との境界線をぼやけさせる。
 一面の白い大地。
 ゴーグルを通して見る光景は、生物の存在を頑なに拒む死の世界だ。吹雪による浸食が、一様にさざ波のような起伏を浮き立たせているが、ここではその波がうねることもない。
 凪。時間の止まった世界。
 そのような感想は、ここまで旅してきたスティーブン・スウェデンボルグにとっては今さらのものでしかなかった。
 内陸であるこの地域では、赤道から50度も離れると、もう生物の生活できる環境ではない。ブーツの分厚い靴底に踏みしだかれた氷河の下敷きになっているのは、有史よりはるか以前に取り残された時間だった。彼の仕事は、この途方もないタイムカプセルの、殻の内側を覗くことなのである。
 エンジンが十分にプレヒートされたのを確かめると、スティーブンは雪上車に乗り込んだ。道のりはまだ長い。


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 非常灯の明滅するブリッジの中は、メインモニターを見つめる群衆で埋め尽くされていた。不安と期待、両方の感情が複雑に彼らの目に交錯していた。
「エンジンユニット1〜3の出力が、安定しない!」
「第十五居住区の内壁破損! 隔壁閉鎖します」
「どうしたんだ!? 排熱の効率が落ちてるぞ!」
「電力供給が……」
 衝撃はそこかしこで起き、ブリッジ全体が激しく揺れ動いている。それでも人々は、巨大な画面の隅々までを見逃すまいとしていた。
「ねえ、まだ見えないの? ママ……」
 彼らはこの船で生まれ、そして育ってきた。彼らは星の大地を知らない。ただ伝説へ。何代にも渡って語り継がれてきた星の輝きへ、その宇宙船は飛び続けるのだった。名前しか知らない、あの星へ。ゆえに彼らは、自らを「トラベラー」と呼んだ。
 何千万ものトラベラーを乗せるその船は、今全力で最後の命の炎を吹き上がらせているのだった。その中の人々が知る世界の全てであるその船が、ついに終幕を閉じようとしている。しかしもうすぐ、彼らの旅も、後少しで終わろうとしている。
 結末は、死か、生か。
 伝説を現実に引き込むには、あと一歩踏み出せば良い。踏み出せれば良いのだ。だがその船は今、彼らの心と共に不安に揺れていた。
 人の群れの中の一角が、微かにざわめいた。
「……見えた……」
 今まで一心不乱に画面を見つめていた群衆が、一瞬、一斉にそちらを向いた。
「あれか……!?」
 ノイズの向こうに、今確かに青い光点が見えたのだ。ざわめきは消えつつある。一人として吐息の音すらもらす事はなく、その一点に視点が集中していた。
 彼らの夢見た物がそこにある。
 行く手を光学的に拡大投影しているモニターに、ひときわ明るく輝く太陽の下に、今それがあった。
「地球……」
 シエラ・ヴィンドは、そっとその名を口にしてみた。彼女の瞳は、その双眸に地球を宿しているかのように青かった。


 青年の淡い栗色の髪を、窓から吹き込んでくる風がそよがせていた。キャンパスの屋上から眺める空は、どこまでも青く澄んでいる。
 ついこの間から感じるようになった何かの予感。メイツは最近、特に意図したわけでもなく、空の見える場所に立っていることが多かった。ふと我に返ると、こうして上を見上げている。何が気になるのか自分にもわからない。だが手の届かない空の向こうに感じる存在感は、以前にもまして強くなるばかりだった。
 空よりも遠くを見つめている彼の目の前で、不意に手が振られた。
「またこんな寒いところで」
 驚いて振り向くと、すぐ隣に彼と同じ年頃の女性が立って手をかざしている。
「アレックス?」
 呆けたように口を開けたまま振り返ったメイツの顔がおかしかったのか、アレックス・ハーベイスはクスクスと忍び笑いをもらした。
「いい天気だから、空を眺めるのも結構だけど。放っておいたら一日中そうしているものね。今日は教授に会いに来たんでしょう?」
「そうだったな。もう降りよう」
 そう言って、メイツは苦笑した。腕を添えていた鉄柵から離れて、階段口へ向かう。
 まだ何か心残りがあったが、彼は頭を勢い良く振って、その考えを追い払った。階段を降りかけたアレックスが足を止め振り返る。
「空より、もっと別に見てなきゃいけないものがあるでしょ」
 そう言って、またふっと笑顔を見せた。


『二ヶ月前に海王星基地で観測されたという巨大な物体について、アシミア宇宙防衛庁からの発表によりますと――』
 デパートの家電コーナーで、シエラはテレビに映っていたニュースの報道を聞いていた。
 画面ではレポーターが、宇宙庁ビルを背にして、現在言われているその巨大な物体についての諸説の説明をしていた。
「まだ、我々が来たという事は、知らされていないようだな……」
 ニュースを見る限り、どうやら彼女達トラベラーの存在を知っているのは、宇宙庁と外務省の中の一握りの者だけのようだった。
 地球へたどり着いた人々は驚愕した。
 青い光が肉眼で捉えられる距離まで何とかたどり着いた彼らは、その伝説の星から電波が無数に発信されているのを見つけたのだ。そしてそれはまぎれもなく、彼らと同じ、人間の言語だったのである。
 信じられない事だった。かつてその伝説の星から彼らの祖先が飛び立って以来、そこには人は一人として残ってはいないとされていたのである。ごくわずかの者しか知らない、もう一つの忌まわしき言い伝えを除いては。
 そして彼らの前に、トラベラーではない人間が現れたのだ。地球人の外交官と自らを名乗った者達は、彼らを月の裏側に移動させ、地球からは見えないようにした。どちらも気が動転していた。トラベラー達は地球の先住権を主張したが、外交官は右へ左へとその言葉をかわして、交渉を先送りにした。
 それから一週間が経ち、トラベラー政府の上部が交渉のために地球へ招待された。シエラ達数名はその時に命令を受け、セキュリティとして連絡船に同乗し地球へと潜入したのである。
 地球にいた人間とトラベラーは全く同じ姿形をしていた。言語も多少文法に変化があるが、同じものである。さらにテレビや電話など、科学的な文明も良く似ていたのだ。
 サックに詰め込んだ小剣が、シエラを急かすようにがさごそと揺れる。彼女は金髪を指にからませながら、考えを落ち着かせた。ニュースの視聴をほどほどに切り上げ、その場所を立ち去ることにする。そうして少し後ろへ下がろうとしたとき、不注意だったのか、通行人にぶつかってしまった。
「す、すまない」
 思わずそう口に出してしまってから、彼女は慌ててその場を走り去った。


 メイツにぶつかった女性が慌てて駆け去るのを見て、アレックスは不思議そうに言った。
「今の、女の人だったよね……?」
 メイツも、おかしなものを見たという表情でうなずく。
「すまない、だって」
 おまけに変な訛りがあったようだ、と彼は思った。が、どうでもいい、とすぐに考え直す。
「ああいうのもたまにいるんだろ。行こう」
 アレックスの背中を片手で押して、前へ向き直らせた。二人は映画を見た後の空き時間で、どこへでもなく、ぶらぶらとしていたのである。
 彼にとって変わった事といえば、ニットのセーターに付いた数本の透き通るような金色の糸くらいのものだった。


 夕日の色に染まる国立公園の人気のない一角で、彼らは合流した。服装は地球からのテレビ放送を参考にしていたので、この広い敷地の中で、彼らに目を止める者はいない。
「戦うべきだ。地球を我々の手に取り戻す事こそ、まず第一にせねばならない」
 長身で、一見線の細そうに見える若い男が、身振りを交えて訴える。彼等の当初の目的は、地球の人間の持つ技術の水準や軍事力を確かめる事だった。偵察部隊の隊長カーマインの、さも当然という態度での提案に、中の一人が反対の意を述べる。
「トラベラーとコピーとでは、総数において違いすぎる。お前はこの星の人間全てを追放しようと言うのだろうが、無謀だ。地球の一地域に独立国家を建てる事はできるかもしれんが、それは話し合いによるべきだ」
 地球の国家は、国際連邦と呼ばれる組織によって、統一されていた。独立したものは一つもない。
 コピーとは、地球人に初めて遭遇してから彼らが決めた、それらの呼び名である。つまり彼ら以外の人間は全て「複製」、というわけである。
 それに同意してシエラも言った。
「私もそれが先決だと思う。我々はまだ戦うと決まったわけではない。コピーの出方を待っても良いのではないか」
 カーマインは、反対意見に同意したシエラを見据えた。
「その様子だと、事態を良く理解していないようだな。我々はここへ来た。それはいい。だが、どこに住むと言うのだ。肥沃な土地には人が溢れている。話し合いだと? ばかばかしい。そんな事では、人里離れた荒野にでも押し込められるのがオチだ」
 カーマインは一度言葉を切ると、回りを見回した。メンバー達は彼の言葉を受けて、互いに顔を見合わせる。彼はセリフの効果に満足すると、今度はシエラにではなく、全員に向かって言った。
「彼らの技術力は、我々が十分理解できる範囲にある。諸君らはこの聖地がコピーなどに蹂躙されているのを、黙って見ているというのか」
「そんなことは確認が取れていないはずだ。それに理解できるとはいえ、彼らの方が高い水準にあるのは否めない事実──」
 シエラは食い下がろうとしたが、カーマインはその言葉を遮った。
「貴女はあまり喋らない方が良いな、シエラ。ここの女性とでは、言葉遣いが違いすぎる」
 憮然として彼女は引き下がった。カーマインの我を通すのもしゃくだったが、この男の言うことも事実には違いないのである。
 結局、カーマインの言葉は、誇り高いトラベラーの意識に少しばかりの影響を与えることになった。彼らは情報を交換し合ってそれぞれまとめ、それから散り散りに別れてトラベラー政府の宿舎が設置されたホテルへ戻っていった。


 トラベラー達は最初から、地球の支配者とでもいうようなコピーの存在が許せなかった。彼らの世論は開戦へと傾きつつあった。
 彼らは、自分達こそオリジナルである、と決めてかかっている。複製品の数がいくら多かろうと、それに負けるなどという事は考えもしなかった。
 聖地を汚したコピー共を倒せ。
 地球から交渉を終えて戻ってきたシエラを含む協調意見の持ち主達は、失望のまなざしでそれを静観するしかなかった。
 トラベラーの全世界である、巨大な恒星間宇宙船『アコンカグア』。その居住区のリング部を貫くセンターシャフト内の通路に、シエラはいた。窓から見おろす月は、相変わらずその裏側だけを彼女に向けている。そしてその向こうに、ここからは見る事ができない地球。それは、余りにも空しかった。
「シエラ」
 気付かないうちに彼女の近くへやってきていたのは、先ほどカーマインの提案に反対していた人物である。その背の高い筋肉質の男は、名をヨハン・エルスタットと言う。彼は協調派だった。
 シエラの隣まで来ると、同じように眼下の月に目を向ける。腰に吊った大小二本の刀が、互いに触れ合って音を立てた。
 トラベラーは、たとえ軍人であっても、基本的に銃を持つ事はできない。宇宙船の気密を破ってしまう危険性は無視できないし、訓練などでも大量に消費する実体弾を、常時確保できるほど資源が豊富ではないからだ。次第に、剣や刀など、長く保つ武器が愛用されるようになったのである。彼はその分野において、一流の腕を持っていた。
「……ヨハンか」
「お前はどうするつもりだ」
 月の地平を見据えたまま彼は言った。
「民衆は確実に開戦論に染まりつつある。お前は戦うのか」
「命令を受ければ、仕方あるまい。ただ」
 シエラはそこから少し声を低めると、話し始めた。
「ただ、勝つ可能性がゼロであるとは言わないが、私は僅かな可能性に賭ける気はない。戦況が不利になってくれば、カーマインは失脚するだろう。その時に、再び協調論をおこすしかない」
 開戦派の中心となっているのは、カーマインだった。彼は政治に干渉する力さえ持っている。
「なるほど。お前はそう読んでいるか。しかし、奴は……、カーマインは、長い目で見れば阿呆だが、局地的には賢い。もし戦いがどちらにも傾かず、泥沼の状態になってしまったら……」
 首を横に振って、彼女はヨハンの言葉を制した。彼はうなずいてその場を立ち去る。
 戦いが長引くようなら……。
 彼女は、命令よりも、トラベラーの存続を第一に取ることを既に決めていたのだ。
 しばらくして一つ深呼吸すると、シエラは向き直った。
「月を見ているのか、シエラ」
 無重量の通路を流れてきたカーマインが、シエラの隣に降り立つ。ツインゲートの姿は、もうどこにも見えなかった。
「我々の目から聖地を隠す。いまいましい存在だ」
 カーマインの感想に、彼女は沈黙をもって答えた。
「あの模造品……、貴女はどう思う、あの存在を」
「現に存在するものは仕方がない。それに模造品ではない。彼らは我々と同じ人間だ。勝てる戦ではないぞ、カーマイン」
 カーマインは否定するように首を振る。大勢がもはや動かしがたいものであることは、彼女にもわかっていた。だからそれ以上言い募るような事はせず、カーマインの次の言葉を待った。
「私はそのような事を言いたいのではない。我々トラベラーの他に、人類が存在するのはなぜか、という事だ」
 シエラの身体が一瞬、硬直した。
 この男は一体何を言おうとしているのだ……、まさか……。
「貴女も知っているはずだ。もう一つの伝説を」
「何が言いたい」
「貴女の、名前の由来……」
 シエラは、無言で隣の男を睨み付けた。カーマインは少し肩をすくめてみせると、もと来た方へと戻っていった。
 彼女は唇を噛みしめる。
 もう一つの伝説……。
 彼らトラベラーが地球から離れなければならなくなった原因。遠く離れた恒星系の中の、年老いた地球型惑星で、何千年も暮らさなければならなかった根本的因子。
 メイツ。その名は、その地の者達にとって、悪魔のものとして恐れられてきた。当時、そこで具体的に何が起こったのかはわからない。一般に個人の名であるとされているが、正確な記録は何も残っていない。ただその名だけが語り伝えられているのだった。地球に人類が住めなくなる原因を作ったものとして。
 人類はメイツと呼ばれるものだけを地球に残して全て脱出した。そしてメイツの血縁者の中で、唯一地球を脱出した者がの名がシエラ。彼女は、その名を継いでいる。彼女がその名を持って生まれたのは、『アコンカグア』が、最期を迎えつつあるその星から出発する事になった二十一年前だった。正確には船内時間で、である。時間の相対性により、実際には船の外では一万年以上の時が流れ、もといた星はもはや跡形もないだろう。
 なぜ自分がそんな呪われた名を持つことになったのかはわからない。物心ついた頃には、既に軍事施設の中に匿われ、両親の消息も不明だった。だから、自分を名付けたはずの親を恨む事もできなかった。
 シエラは、月に焦点を合わせずに遠くの方を見つめた。
 私が生まれたのが、もっと前の代だったなら。こんな地球を見る事なく、伝説だけを夢見ていられる時代に生まれていたなら……。
 泣き出しそうになっている自分に気付いて、シエラは掌で目を押さえた。
「奴などの言葉に、動揺するなんて……」
 数日後に、彼らは地球に降りる事になっていた。カーマインの予言通り、人里離れた不毛の土地に。


To be continued.


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