表紙 始めに 掲示板 リンク 雑記

Error of Hourglass
葉介

   5

 エンジンルームから白煙を上げ続ける機動車を、メイツは路肩に停車させた。そこは市の目抜通りである幅の広い街道だったが、見渡す限りは人の気配はない。
 戒厳令が発令されたのだろうか。車を降りてエンジンの辺りを眺めながら、そう考えた。だがそう言った連絡は入ってきていない。通信が麻痺しているので、警告を発することも受け取ることもできないのだ。それに、電話すらも通じなかったということは、有線通信さえも使えないことを表していた。
 エンジンルームから少しずれた辺りに、銃創が二つ三つ開いていた。これが原因だろう。弾は恐らくラジエーターを損傷させたのだ。
 ふと、車を走らせてきた方角を向くと、人がひとり走ってくるのが見えた。女性だ。しかし、アレックスでないことは、その髪の色でわかった。
 途方に暮れたメイツは、ぼんやりとその女性の方を眺めた。何かから逃れようとしているような、がむしゃらな勢いで走ってくる。そして金色の髪が目の前を通り過ぎたとき、彼を呼ぶ声がすぐ近くでした。
「メイツ」
 メイツの立つ大通りから横に延びている肢道に、アレックスの姿があった。小走りに彼のところへたどり着いた彼女は、安堵の溜め息をついた。
「どうしたの、この車……」
 機動車から立ち昇る白煙に気付いて、アレックスは尋ねた。
「ああ、軍の応援を頼まなくちゃならなくなったんだが、通信が麻痺して……、この様さ」
 メイツもそう答えて車を振り返った。
「うん……。それなら、別の車で出直した方がいいよ。基地までの距離を考えれば」
「そうだな……?」
 うなずいた後、不意にメイツは、自分達を見つめる視線に気が付いた。
 気配を追って振り向く。この静まり返った通りには、彼ら二人しかいないと思っていた。彼の前を通り過ぎていった、金髪の女性を除いては。
「誰……?」
 アレックスも不安げにその方向を見る。その女性は立ち止まって、こちらを見ていた。見返すというより、ただこっちの方を見やるというような感じだった。
 こちらに向かって、女が低く身構えて走り出したときも、メイツは咄嗟にどう動いていいかわからず、立ち尽くしていた。
 周りの全てが、スローをかけたように、妙にゆっくりと動いて見える。その中で、メイツは明白な殺意を感じた。
 メイツはこの場を避けようとしたが、どうしたわけか、彼の意志に反して、鉛のような身体は身をかばうことすら許さなかった。彼の目だけが冷たく、この出来事を脳に伝えている。
 今や、駆け寄ってくる女の手にある物が何かも、メイツには判別できた。刀だ。彼女がトラベラーであることも、その時彼にはわかった。
 彼の見ている前で、時間がゆっくりと流れていく。しかし、その今にも止まりそうな、それでいて誰にも抑えることのできないそれは、この中で見ることしかできないメイツにとって拷問に等しかった。ゆっくりと、白刃が閃きつつ抜き放たれる。
 アレックスが二人の間に割り込み、刃の描く軌道を遮った。刀は易々と彼女の胸を斜め一閃に通過し、その脇を金髪の頭がかすめて通り過ぎ、アレックスの胸からは鮮血が迸り──
「……あ……!」
 声にならない悲鳴が、メイツの口を突いて出た。ゆっくりと、ゆっくりとアレックスの身体は倒れていく。反射的に体が動いて、メイツは彼女を受け止めた。
 力を失って倒れたアレックスの身体からは、急速に生気が失われていく。それは情け容赦無く彼女の制服を赤く染めていった。
 アレックスの胸の傷を、メイツは手のひらで押さえつけた。だが出血は止まるはずもなく、止めどなく溢れ出てくる。心臓の鼓動は小さく、弱々しいものになっていた。
「アレックス……」
 返事はない。メイツは顔を上げ、彼女を斬った相手を見た。その女はまだ立っていた。少し離れたところに、何かに怯えるようにして立ち尽くしている。アレックスの身体を抱き止めたままホルスターから拳銃を抜き、その女の額に狙いをつけた。
 自分の行動は、身を守るためのものではない。憎悪をぶつけるべき相手が、そこにいるからだ。涙でぼやけた視野の中で、彼はこの時、この女は死ぬべきだと思った。右手の人差し指に、力がこもった。が。
「撃ってはだめ」
 はっとして、メイツは指の力を抜いた。アレックスの声が、その時確かに彼の耳を打ったのである。
 メイツが気をそがれて銃口を下げた瞬間、女は我に返ったように路地のある方へ跳び退り、そのまま姿を消した。
 銃を放り出し、彼はアレックスの顔を見た。だが、彼女はもう口を開くことはなかった。声を聞いたのも、本当は幻だったのかもしれなかった。
 目を閉じて、眠っている。人形のようになってしまったアレックスの身体を、メイツは声もなく抱きしめた。


 ペームルートの主要な軍事基地であるタイコ陸軍駐屯地では、レーダー網が麻痺したため、肉眼による観測が続いていた。この原始的な手段で事態がいくらかでも有利になるとは誰も思わなかったが、他に手の打ちようがなかったのである。
 各指令所との連絡も途絶え、基地は孤立した形だった。首都が何らかの攻撃を受けたことは誰の目にも明らかだったが、入ってくる情報は何もなく、戦況どころか敵組織の正体すらわからない有り様なのだ。篭城は消極的手段だといって、それを責めることはできなかった。
「軍曹……、いつ消えるんでしょうか、あのオーロラは」
 指令塔の屋上で見張りの任務についていた兵士は、快晴の空に不気味に横たわる光の染み跡を見上げていた。
「さあな、聞いたこともない兵器だ。オーロラなんて……」
 頭上を仰いだ軍曹も、ただ言葉を失うばかりだった。
 彼らにはこの一年で、軍事、とりわけ兵器に関する機密の多くがトラベラー側に流れていることなど、知る由もない。だが上空を彩るこの現象が、トラベラー国家が裏経済に多くを依存していることの証拠であった。
 突然、目の前の大地が鈍い震動と共に弾けた。低くこもったような爆発音が彼らの耳を打ち、土煙が柱となって立ち上がった。
「どこからだ!」
 浴びせかけられた土塊を吐き出しながら、軍装は叫んだ。その間にも空を裂く甲高い音が響き渡り、基地の至近距離で炸裂する。
「正面です! 稜線の向こう側から砲撃してきます!」
 最初の砲撃からやや遅れて、基地中にサイレンが鳴り響いた。既にアイドリング中だった戦車が動き出す。軍曹は部下を指令塔に連絡に行かせた。
「急げ、向こうもジャミングのせいで狙いが着けにくいはずだ」
 その直後、指令塔に命中弾が炸裂した。


 観測所からの報告をもとに、彼らがことの事実を確認したとき、月面管理事務局のオフィスはパニックに陥った。情報を求めようにも通信回線はあちこちでパンクし、局員は色を失って右往左往する。局長がようやく駆けつけて混乱は鎮静化したが、事態は初めよりも悪化していた。
 突如始まったアコンカグアの軌道遷移は、初めは地球側が取り付けたブースターのテストか誤作動かと思われた。しかし時間が経つにつれ、異変ははっきりと現れてきた。巨大宇宙船は、月の衛星軌道を外れながら、わずかずつ向きを変え始めたのである。
 アコンカグアを追って映像を送り続けていたマーカーにその後ろ姿が入った。モニターは静止したアコンカグアを数分間捉え続け、そしてその後、映像はノイズに満たされた。
「メイン・エンジンを点火させました。プラズマの影響です」
 アコンカグアから噴射されたプラズマは、この事務局のある基地にも影響を及ぼす程のものだった。全てのディスプレイの画像が乱れ、ノイズが走る。そのため、再び基地の観測・通信作業は中断せざるを得なくなった。今度の場合は先程と違い、機械的にやむを得ない事情であったが。
「ものすごい出力です。月から離れていきます」
 レーダーが回復したのは、アコンカグアが十分に離れてからだった。驚嘆を隠しきれない声で、観測手が報告する。
「一体どうしたことだと言うんだ。あれはもうもぬけの殻ではなかったのか」
「先程からあちらからの応答はありません。通信は続けていますが、どうしますか?」
 頭を抱える局長に、オペレーターが言った。
「重力圏を離れるまでは続けろ。その後は仕方がない、向こうがうまくやってくれるのを願うばかりだ」
 オペレーターは肩をすくめて席に戻る。
 だが、その判断がどちらだろうと、大した変わりはなかった。とうとう最後まで応答はなかったし、恒星間宇宙船であるアコンカグアの加速度は凄まじく、ほんの短時間のうちにそれは月の引力を脱していった。
 その先は地球である。


 虫の鳴き声が、夜気を冷たく震わせている。弱々しく炎を上げる焚火が、荒れ野の赤い土とうずくまる人々を照らし出す。都市部から遠く離れた、郊外の国道沿いに広がるむき出しの地面の荒野だった。
 労役からようやく解放されたリカルドは、紙コップに注がれた緑茶をすすりながら、暖をとる避難民たちの顔を見回した。やはりメイツ達の姿は見えない。舌打ちしたくなる気持ちを抑え、もう一度湯気を立てる緑茶を飲み込み、白い息を吐いた。
 あの後、彼らセキュリティはとうとうトラベラー軍を防ぎ得ず、首都から撤退したのだ。その際、警察と協力して百数十人の市民を避難させたのだが。
 辺りの光景はまるで難民キャンプ、いや、そのものである。だが彼らの輸送能力には実はまだ余裕があった。それが活かしきれなかった原因は、市民の非協力性と食糧の問題である。
 リカルドに言わせれば、彼らは戦争をなめている。いやそれ以前に、戦争が起こったことを正しく理解していないのではないか、と。リカルドは苦虫を噛み潰したような表情で思った。その事に関しては人々を責めることはできない。情報の流通を止められた結果は、自分達の失態が十分証明したのだ。ペームルート市の惨劇は一般者にも多数の死傷者を出し、首相フレデリック・モーリスの安否は不明である。
 同じように紙コップを持ってやって来た彼の上司が、リカルドの肩を叩いた。
「星が出ているな」
「……ああ」
 夜空には、星々に混じって霞のようにぼんやりと光るオーロラがまだ残っていた。それは今になって、ようやく消えようとしているようであった。
「あの時は仕方がなかったんだ。それにまだ、あいつら死んだと決まったわけじゃない。心配するな」
 市のセキュリティ局長であるオイスラーは、そう言って疲れたような笑顔を彼に向けた。彼らはメイツが乗っていったはずの機動車が、市内で乗り捨てられているのを見つけていたのだ。
 オイスラーは紙コップの中のもの──彼の場合は濃いコーヒーだった──で唇を湿らせ、少しせき込み、また少し間を置いて言葉を続けた。
「警察側と話し合った結果だが、明日の朝にもアリマール=ハヤンに向けて出発することになったよ。キャンプを張るだけの食糧もないんだ。話し合ったところで……ヘッ、行き着く結論はどのみち同じさ」
 彼の口調と疲労をたたえた目は、会議が何一つ具体案を出せなかったことを物語っている。
 アリマール=ハヤンは首都とは荒野を隔ててある、隣の都市である。だが吐き捨てるように言った彼の言葉をリカルドは黙殺し、別のことを言った。
「……何者だったんですかね、彼らは。俺ぁ、流浪民族の成れの果てってなぐらいにしか、思ってませんでしたが」
 オイスラーは黙って考え込んだが、やがて答えた。
「奴らが誰であれ、インベーダーであることに、変わりはない」
 不意に、離れたところでざわめきが起こった。二人が駆けつけると、国道の方から人がやってくるところだった。暗がりの中、人影は無言のまま近付いてくる。
 リカルドは暗闇に目を凝らして人影を判別し、その名を呼んだ。
「メイツ……あっ……!」
 そして走り寄ろうとして彼は絶句した。メイツは人間を一人抱きかかえていた。
「なんてことだ……」
 オイスラーも恨めしげに天に向かって呟き、片手で目を覆った。人々は唖然として、行く手を開ける。メイツの抱いているのは、死体だった。
 リカルドはごくりとつばを飲み込み、表情をなくしているメイツに、おそるおそる話しかけた。
「死ん……だのか……?」
 メイツはその言葉に、きっとなって振り返る。そして囁くような声で叫んだ。
「殺されたんだ!」
 リカルドは愕然として、ただその後ろ姿を見送るほかなかった。
 メイツは局長に付き添われ、警察の護送車の中にアレックスの遺体を横たえた。その横に座り込み、眠っているような彼女の顔を見つめる。
「どうしてだよ……」
 彼女は何も言わなかった。アレックスは何も言い残さずに、死んでしまった。
 この時、彼は一つの決心を固めた。


「月の重力を脱しました。進路、プログラム通り。オール・ステディ。減速開始」
 一度は誰もがもうここを使うことはないだろうと思っていたメインブリッジに、かつてのスタッフが集まっていた。整然とディスプレイのデータが読み上げられる。
 月の影から地球がその柔らかな青い光をもって彼らの前に姿を現したとき、スタッフ全員は感嘆のため息を漏らしてそれを眺めた。だが今は与えられた任務とその緊張のため、それぞれが整然と持ち場について作業を行っている。
「重水素燃料の燃焼効率はどうか」
 ブリッジの、一段高いところに陣取った中年太りの男が、オペレーターに尋ねた。
「燃焼室内圧力、温度、共に安全圏内です。比推力は我々の使っていた通常燃料より若干下回りますが、影響ありません。フランチェスカッティ博士」
 この船の主推進機構はイオン・ロケットの発展型であるが、これは通常の核熱方式推進システムに比べ、はるかに高い比推力(1sの推進剤が1sの推力を出し続けられる時間)を得られるかわり、推力(排出される質量=排気の運動量)が極めて小さい。そのため今回のような事態には適さず、かわりに緊急加速用のレーザー核融合ロケットが用いられた。その推進剤であるD−D(重水素−重水素)燃料ペレットが、コピー側からのものを使用して作られたのである。
 また、この燃焼効率に現れる結果を見てもわかるが、これまでの情報収集の結果、コピーとトラベラーの技術力の較差が明らかになった。重工業・コンピュータ技術を始め、全体的にコピー側のテクノロジーが上回っているが、『メラタイト』を始めとする素材精製・結晶技術と、意外なことに土壌改良および作物循環技術はトラベラーの方がわずかだが高かったのである。
 これはアコンカグアという限られた生活空間の中で、土地を限界まで活用しなければならない独特の事情が結果につながったのだと考えることができる。しかしトラベラーが地球の技術を貪欲に吸収しつつあるのに対し、それらの技術はいまだ地球人の目に触れることはなかったのである。
 減速に向けての最終確認を終え、トラベラーの技術官僚ジーノ・フランチェスカッティは指令席に座りなおした。
「気に入らんな」
 普段は穏和な表情を歪めてそう呟くと、彼の傍らにたたずむやせた背の高い男が反応した。
「何がでございますか?」
 言葉遣いは丁寧だがはっきりとした意志を相手に感じさせる、そんな物言いである。その男は彼の側近であり、腹心の部下でもあった。
「カーマインという向こう見ずな演出家のことだよ。いつの間に我々にものを命じられる立場になったものか。油断ならん野心家だ。……君はどう思っている、キーナン君」
 ドミニク・エーリッヒ・キーナンはメインモニターの地球に、シエラのものとはまた違う、凍り付くようなブルーアイの視線を向けた。
「彼は、彼自身の権力は何ら持ってはいません。時代の流れを煽り、それにうまく乗ったのです。何人であろうとも逆らうことのできない、時世というものです」
「フム……。すると我々は、流れに乗り損ねた魚、というわけだな」
「恐れながら」
 自尊心の高い者なら気を悪くするであろうことを、表情一つ変えずに、キーナンは言ってのけた。だがフランチェスカッティは、そんな素っ気ない言葉にもニヤリと笑って見せただけで、質問を重ねた。
「では、この船をあの男はどうすると思う?」
「利用するでしょう。地球人達に心理的圧力を与えるために。また、自分の命令によってこの船を動かすということは、トラベラー社会においても、自分の権力を確固たるものにすることにつながります」
 キーナンはコピーと言わず、地球人という言葉を使った。さらに彼は続けた。
「もう一つ。彼は地球人に対する宣伝文句として、この船を地球の中心都市に落とすと言うことを考えているかもしれません。アコンカグアは地球上からも見える大きさです。地球人を動揺させるには、またとない材料ですよ」
「その通りだ。恐らく君の言うとおりになるだろう。だがこの船を落とすわけにはいかん。それこそ奴の思う壷だからな」
 眠りに着いた巨大宇宙船を再び起こしたのは、カーマインの要請によるものだった。彼は一方で手の込んだ策略を練りながら、もう一方では明らかにトラベラー支配階級に対する示威行動としか取れない発言を繰り返しているのだ。そしてもし、アコンカグアが質量爆弾として使用されれば、トラベラー民族は地球に縛り付けられることとなり、カーマインはそれを扇動して、否が応にも戦わざるを得ない状況へ持って行くだろう。カーマインの計画は、緻密な狂気に彩られた、滅亡のプログラムだった。
「ですが、今彼の目は地球だけに向けられています」
 そう言いながら、キーナンの唇は笑った形に歪んだように見える。
「そこが狙い目だ。だが、我々にはまだ情報が不足している。ヴィンド女史との連絡は、うまくいっていないようだな」
「左様でございます。カーマインの残した布石が利いているようで。ツインゲートを介してのチャンネルも、うまく働いておりません」
「うむ……」
 フランチェスカッティは、腕を組むと、やや頬の肉のたるんだ顔を引き締めた。彼にとってカーマインの仕業は、文字どおり小賢しい真似であった。
「とにかく、時間は少ない。ここでこれ以上乗り遅れては、後々に差し支えるからな」
 キーナンは無言で頭を下げると、ブリッジから退出した。残されたフランチェスカッティは、シートの背もたれに身体を預けると、目を閉じた。かすかな機械の作動音と、空調のダクトの音だけが後に残った。
 ペームルートの翌日、トラベラー国家の独立と国連に対する宣戦布告は、ロバート・デイビスという男によって行われた。さらにトラベラーが宇宙の果てから『戻って』きたこと、そして彼らを運んだ宇宙船アコンカグアの巨大な姿はTVで世界中に放送された。人々は驚愕に目を見張った。
 “ペームルート事変”は、こうして人々の目に明らかにされたのである。


To be continued.


prev 掲示板 next

表紙

[PR]動画